陽明山のふもとに、蒋介石と妻宋美鈴が隠れ住んでいた(失礼)別荘があるという。台北からほど近い温泉の湧く活火山ではあるが風光明媚な場所だ。当時、厳重な警備下にあったこの場所も今では一般開放されているという、
1日2回、ガイドと同伴が条件で内部を観覧できるという。もちろんガイドは中国語のみ。
今までの観光スポットとは違う空気感を感じる。
陽明書屋(ヤンミンスゥウ)
どんな所なのか
「陽明書屋」はもともと、国外のVIP客をもてなすために「中興賓館」という名前で、1970年作られたとある。
蒋介石が妻・宋美齡と共に避暑地として過ごした建物とも言われ、当時は厳重な警備が敷かれていたとして知られている。
蒋介石は西安事件で命を落としそうになった、その後国共内戦で敗れ台湾へ逃げてきた、陽明書屋の建物の設計の仕方や厳重な警備体制からは、大陸への恐怖は相当な物だったと想像できる。
蒋介石元総統逝去から4年後、国民党が歴史的資料をこの地に移し、孫文を始めとする建国の指導者や歴史的大事件である二二八事件の資料もここに保存されることになった。
その後建物は「陽明書屋」と名前を変え、条件付きで資料と建物を一般に公開するようになったという事だ。
参観方法:個人参観は9:00、13:30の2回のみ(パスポートを持参し現地で申し込む)
参観料金:大人:NT$50元
交通手段
調べてみて、頭を抱えてしまった。交通手段だ。バス停が右上と左下にあるが陽明書屋まで距離がある。
台湾の夏は暑いし、Googleマップで調べると、やはり、バス停から、距離がありそうだ。
どちらのバス停からが近いのか、ホテルのフロントへ相談してみる事にした。
しばらく待っていたら、こういわれた。
どうしても、そこへ行きたいですか?
はい、行ってみたいですね。
それならば、、、。
このホテル横に常駐しているタクシーに乗って行って、観覧しているあいだ外でタクシーを待たせておくので、終わったら、それに乗ってここへ戻ってきて欲しいのですが。いかがでしょう。
費用は、1000元でどうでしょうか。
歩かなくてよいのは助かるな。
では、それで、お願いします。
明日、9時開始です。
少し余裕をもって、
8時30分くらいには現地に着きたいです。
大丈夫ですか?
わかりました。
では、そのように。
すごく、心配してくれている雰囲気が伝わってきた。
陽明書屋へ向かう
当日、ホテルのロビーに降りたら運転手が待っていた。いつもホテルの玄関口でタバコを吸いながら雑談をしていた運転手だ。
そして、出発。タクシーは、陽明山の山道を登っていく。タクシーで正解だったと思う。そして到着
門は、重々しい雰囲気
門から入った受付センター、ここで観覧を申し込む。
門を過ぎて建物に入る、カウンターがあり、そこでパスポートを提示し料金を払う。私が日本人だという事で少し驚いていた。
しばらくすると、奥から初老の男性が出てきた、とても、綺麗な日本語を話される。温和な表情だが頭の回転が速そうな眼付をしていた。
どこから来たのか尋ねられたので、日本の広島からだと答えたが、広島が良く分からなかったみたいだ、そこで「日本的廣島来了(リーベン・ダ・グゥアンダォ・ラィラ)」簡単に答えた。
「あなた、中国語がわかるんですね」と、マジな顔で言われた。
時間になると、集合がかかりさらに奥の入り口から敷地内へ入る、しばらく行った広いスペースで、ガイドからの注意事項、室内の写真撮影は禁止。グループは5組だった。
それぞれ、簡単に自己紹介しろと言われた。聞いてないんですけど~(汗)。
一組は台北から来た2人連れ。リュックを担いで歩いて登って来たという。
残り3組は上海と福建からやって来たという大陸組、私は日本の広島から来たといった。
すべて中国語だ。心配ない、私も片言しか話せないんだから。
自己紹介が終わって歩き出す。妙な連帯感がある。それぞれがめいめいの言語で話しかけている。
2つ目のカーブ、広くなっていて、逃走用のヘリが常時置かれていたという。
陽明書屋入り口付近にあった守衛待機場所。
入口門の付近中央下部付近に穴がある。銃眼だ、中に人が入れるようになっている。
拡大するとわかるが、コウモリが周りを囲んでいるマーク、コウモリは発音が(フゥー)福と同じなんだ、縁起を担いでいたんだろう、蒋介石自身もマントを身にまといコウモリのような恰好をしている写真が多数ある。
残念ながら、内部の写真が見当たらない、内部は撮影禁止だったんだと思う。外壁が緑塗装されていて上空からもわかりづらくなっている。
2階奥の角部分に窓を多数配置した蒋介石の執務室がある、死角が出来ないよう工夫してある、逃走用のドアも3か所付いていた。
左下に地下からの階段がある、逃走用の通路の地上出口。
通路用照明灯、外部や上空に光が拡散されないように、工夫して設置されている。
一列でしか通れないよう工夫されている。
閲覧終了、入口事務センターへはこの門から入っていく。厳重だ。
西安事件
1936年、張学良が蔣介石を監禁し、国共内戦の停止を迫った事件。蔣介石も国共合作に同意し、翌年、日中戦争が勃発して第二次国共合作が成立する契機となった。
引用元:教材工房 世界史の窓
西安(シーアン)は陝西省の中心都市。古都長安であり、市内と郊外には漢代や唐代の遺跡が多い。かつて父の張作霖を日本軍の謀略である張作霖爆殺事件で殺されていた張学良は拠点の満州を日本軍に奪われ、東北軍を率いて易幟(えきし)を行って国民党政府とともに戦うことを表明したが、肝心の蔣介石が中国共産党との内戦を優先させて日本軍との戦いを極力避けていることに不満を持っていた。1936年、延安の紅軍(共産党軍)と対峙する西安の国民党軍を督励に来た蔣介石に対し、十七路軍の楊虎城とともに内戦停止を訴えたが容れられず、12月12日、兵を動かして蔣介石を監禁し、内戦を停止すること、南京政府を改組し諸党派共同しての救国にあたること、政治犯の釈放、民衆愛国運動の解禁など「8項目提案」を提示しその受諾を要求した。
「合作」という言葉が出てくるが、これは日本語で言う「協力」のこと。
ダンなりの解釈だが、当時、中国国内で国民党と中国共産党が内戦をしていた、国民党の蒋介石は一時期、孫文と日本へ亡命していたほどの親日家の共産嫌い。
西安で戦っていた張学良にもっと頑張れと言いに行ったところ、寝返っていた張学良に逮捕されたという事だ。共産党の毛沢東はすぐに処刑するよう希望したが、スターリンからの指示で条件付きで助命された。
助命の条件は、侵略を続ける日本軍と戦う事。両軍が戦う事で互いに消耗するだろう、中共産党はできるだけ、戦力を温存し、決着がついた後で中国全土を有利に支配しようとしたのだろう。
妻の宋美鈴も飛行機で上海から駆け付けた。周恩来もやって来た。
この事件後、国民党は日本軍と本格的に戦い始める。張学良からすれば、日本に父親を殺され、侵略してくる日本を放置して、国内で内戦なんかしてる場合じゃないだろという事だったんだろう。
日本政府、台湾断交前夜
ここに、池があってコイが泳いでいた。
台北市内が一望できる
ガイドさんから教えてもらった話しだが、この池の前で元首相の岸信介さんと、蒋介石さん話していたそうだ。
まもなく、日本は米国と同調して中華人民共和国と国交を開くが、条件として、正統で唯一の中国国家であることを認める事、結果として、中華民国とは断交する事になる。
国連から除名される前に、自ら脱退し、新たに台湾として申請すれば、米国も、日本国も力になる。
それが、将来の台湾にとってベストな選択であるからそうしなさい。と。説得したらしい。
ところが、蒋介石さんはそれを認めなかった。自分たちこそ正当な中国政府であるという事だ。
中国人として死にたい、と、
戦後、75年たつが、今の台湾は、国家として承認されておらず、オリンピックでも国名、国旗などの掲示を認められてないどころか、希望を提案しただけで参加自体を取り消されかねない状況が続いている。
もし、、、、、、。 歴史のIFだと感じる。
まとめ
観覧が済んで、外へ出ると、タクシーの運転手がやっと出てきたみたいな顔で待っていてくれた。
帰りの車内で気を使ってわざわざ、テレサテンのCDをかけてくれて、自分は車が好きだといい始めたので、どこのメーカーが好きかと尋ねた。
ダンを日本人だと知っているので、気を使って「トヨタ」と言ってくれると思っていたら。
「フェラーリだ」と、答えた。
面白い運転手だった。
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